2009年3月9日月曜日

ガラガラポンの前に



政治に権力闘争は付きものであり、これが無い独裁政治も困るが、この闘争は闘争すること自体が目的となり、何を求めての争いなのか、当事者自身がわからなくなるという魔性を秘めている。
目的と手段が混同され、争ったり妥協したり、味方したり裏切ったり、それを繰り返すことが政治そのもののように思えてくる。
だから権力闘争は局外者から見れば醜悪にも滑稽にも見え、政治家はすべて信用できない悪い人のように見える。
しかし国家を運営する以上、政治家が必要な存在であるのは当然である。
権力闘争の過程で妥協や交渉などの政治技術だけを身につけて、肝心の目標を見失った政治家も確かに多いし、それを軽蔑して政治に背に向けることはたやすい。
しかし、その政争の過程で国家運営を真剣に考え、目的を見失うことのない政治家も、世の常として必ずいる。
自覚すると否とを問わず、歴史上の役割を担い、歴史の歯車を前進に向かって押していこうとする者が現れてくる。
政界遊泳術を政治技術と混同している政治家は論外として、信念と理想をもった政治家も常にいることを信じねばなるまい。
それが誰であるか、見分けることが肝要なのだが、いつの時代も当事者の同時代人が見分けることは甚だ難しい。


白石一郎 「蒙古襲来」より